昭和51年08月10日 月次祭



 今朝御用を終わらせてもろうて下がらせて頂いとりましたら、是非私でなからにゃいけんという人がお参りしておると、茶の間でお会いしたんですけども、娘さんがなんとか癌というここの、もうここに何んか癌が出来ておる。医者はもう諦めてくれと言われました。まぁ二通りに手術をするだけはして見ろうということで。実は昨日お母さんという方がお参りになった。そして今日が九時から手術だというので、ちょうど娘が手術室入ったのと一緒に、こちらえ出かけて見えております。
 今度はお孫さんと二人でいわゆる、今日手術を致します人の子供さんであります。私は茶の間でその方達が来るのを待たせて頂いて、御祈念をさして頂いとりましたら、もう本人が魂も勢も尽き果てておる。だからねもうまぁ死ぬ運命にあるんだと頂くんです。けど昨日からお願いに来とるし、縁を頂いてここにお縋りをしとるんですから、その助からんところをひとつ助けて貰わにゃいけませんから、お願いさして貰いよりましたら、しきりに私の坐っとる横が卓杖台が、大きな卓杖台があります。
 その上にその布巾の下に何か入れてあるとを頂く、ですからちょとはぐってみたところが、この頃山本さんがお供えしとる、このくらいばかりの紫蘇茶という紫蘇の葉をお茶にしたやつです。それを熱い湯でこうそれ大変美味しんです。紫蘇茶と言う事を頂くのです。こりゃおかげ頂くなぁと思うた訳です。私の方の幹三朗がいよいよあの肉腫で、もう百のものは九十九は駄目だと言われた時に、も最後のお参りちょうど高校修学旅行でございましたけれども、学校ではもちろん連れていきません。
 本人はそうたいした自覚症状はないんです、こう腫れとりますけれど、けれども診察を受けた結果肉腫ということが分かって、まぁようもこんなになる迄ほっといたもんだと言って随分、まぁ家内はお叱りをお医者さんから頂いた。そん時にちょうど偶々夫婦で古川先生の丁度亡くなられて、三年か五年の式年がございましたから、それにお参り頂いとったので参拝をする。それでお前は修学旅行にも行けんのだから、ならまぁ一緒に御本部参拝さして貰おうと言うたら、なら僕も一緒に連れていってくれと言うてから。
 一緒にまぁ心の中では、これが親子一緒に御本部参拝をさしてもらう、最後になるのかもわからんという、まぁ気持ちでお参りをさして頂いた。そして奥城に出らせて頂いて頂いのがその紫蘇でした、もういうなら死相が出ておると神様が仰った。でもそれを又お願いをさせて頂いておったらあのカラーでね。いわゆる紫蘇は紫色をしておる。紫蘇の葉は死相が出とる程しの事だけれども、一心に縋ってまぁ紫の色というのは安心と言われるから、まぁない命を言うならば頂く助けて頂くという。
 まぁはっきりとではありませんけれども、かすかにそういうまぁ一途の望みをもって帰って参りましたが、その時頂いたのがその紫蘇でした。今日頂くのもやはりその紫蘇の茶でした。だからその紫蘇ということを茶にするのですから、お茶にするということですから、お茶ということは流すということですからね、私のいわば取次によって、もう死ぬるところの氏子の死を流しておかげにしてやろうという、ご神慮であろうと思うて、その事を伝えさせて頂いた。
 あれが合楽にずうとおかげを頂いておる人ならば、それだけでも安心するでしょけれどもねえ、そのどういうことか意味がさっぱり分からない、ただもう心配のあまりにお縋りして来とるだけの事ですから、先程電話が掛りましておかげで大変順調に手術が、これはもう手術が終わったら、あのう順調に手術がでけてたらおかげを頂くという、可能性が大変強くなってくるということでございました。それがもう大変私が電話で、末永先生が受けたから詳しくは聞きませんけれども。
 こういう柿本さんというその方からこうして電話が掛ったという電話がありました。どうしてここに昨日ここに御神縁を頂いたかというと、ここの合楽の田中さんのこの樂人をしております孫のは、の婆ちゃんになる訳です。でここに熱心に参って来るのは田中初美子さん、この婦人会に熱心に毎朝日参して来るんです。そのお婆ちゃんが具合いが悪いからというので、所がこれも何々癌という大変難しい癌らしい、それでおかげを頂いてそん時も手術が六時間か七時間掛りました。もう大変な手術だったらしいんですねえ。
 もう一生懸命にお母さんが介抱に行っとりますから、そのう孫のきよ子さんが一生懸命にお参りをして参りました。それでもうおかげを頂いてまぁ病室にまぁ入った所が、そこは何人ものまぁ言うならば、一部屋に何人も入らにゃならない病室がない訳です。丁度昨日一昨日でした。そのキヨ子さんがお参りをして、もうとにかくお母さんがあのうお婆ちゃんが付いてるんですけどもね、兎に角もう本当に地獄の中におる様な、もう息の絶えそうな病人がそこにもここにもおる。一人はここから大便が出ておると言った様な。
 そういう夏ですからね今の近代的な、そのう冷房もなんもないですもん、久留米医大ですから昔の古い病室ですから、それでその一杯のベットの中に付き添いの者は、下の廊下に寝らにゃいかん、その廊下がまぁウジ虫か何か知らんけれども、虫がこう寄って来るんだそうです。もうそれだけでももう地獄に行っとるごたるちいうて、そのお母さんが悔やんでおるという。それで私がお母さんに言うて下さいちね、本当にお母さん親が助かるか助からんかという瀬戸際ですから、これをひとつ修業として受けさせて頂いて。
 幹三朗があのう具合の悪い時にその田中さんが、あん時には毎日百人からのお祈り添えがございました。その中に田中さんがどうでも教会のお坊ちゃんが助かってもらわならんとね、幹三郎先生が助かって貰わんならんと、その代わりに今日から只今から私がさせてもらう修業はです。もう一切の事を修業と思う茶碗を洗わせて頂くでも、丁度その頃は取り入れかなんかお百姓の忙しい時分でした。お百姓さんとこのお手伝いに行く事も、これも幹三郎さんがおかげを頂かれる事のための修業と思うた。
 茶碗を洗うのも一切いろんな問題が起きて来る、心の上にも形の上にも起きて来る事をです。もう幹三郎さんがおかげを頂かれる事のための修業と思うたら、その一切の修業が有り難うして有り難うしてという、その時に幹三郎が退院して帰った時の、体験発表に田中さんがそういうそのう発表なさいました。今度の場合はその親ですけれども、そういう心が起らんと見える、もとにかく匂いとそれからチョット座ったら、虫がこうやって寄ってくると言う様な事で、もうお母さんは地獄に行っとるごたるというて。
 そのうまぁ嘆かれるのを聞いてね娘さんのキヨ子さんが、もう本当にそうじゃろうというてお届けしましたから、そん時の話を私がしてね、お母さんが助かるか助からんかという瀬戸際だからね、それこそどういう匂いの悪い所におろうが、どういう例えばうじ虫が沸いておる様な所に寝らなければなるまいが、これが親が助かる事だと思うたら、その事が有り難うなるがと言う事を、まぁ体験をもっとるからそう言うてやりました。昨日来て田中さんが見えてから、その柿本さんて方は昨日お導きして参りましてから。
 もう先生人間の心というものは不思議な事ですと。はぁ今夜又ここに寝らんならんと思うたら、それだけでももう術ない思いがしておったけれども、ほんにこれがお婆ちゃんがおかげを頂く為の修業だと思うたら、寄ってくる虫も匂いも皆んなおかげとして頂ける様な気持ちになった。そこへ丁度朝その十五になる娘さんが、お母さんの所へ来て、医者からもういよいよ助からんと言われて、もうそれこそ脇から見ておられん様に泣き縋りなさる、お母さんお母さんというてもうこれが今生の別れ。
 明日は手術もう手術室に入ったら、出て来るか出てこれんやら分からないというので、まぁ娘さんが嘆かれる、それを見せて頂いた時にです。はぁこりゃお取次を頂いて、お願いをしてあげなければいけないというて、お取次を頂かれそしてそのお婆ちゃんになる方に、その合楽の話をさして頂いたら、是非連れて行ってくれというのが昨日のお参りでした。そして今日はそのお孫さんその十五になるお孫さんと二人で、もちろん田中さんも一緒に三人で今朝から娘は手術室に入った。
 自分達は合楽の方へ参って来たと言う事になった訳です。信心の事は何も分かりませんけれども、私が神様から頂く所は只今申しますように、もう死相が出ておる程しの病人であるけれども、お取次の働きによって金光大神のお徳によって、ない命を助かるいうならば運命を変えて頂く程しの働きが、もう既に始まったと言う事が、紫蘇茶と言う事で感じるのでございます。紫蘇がもう死相が出ておるけれども、それをお茶にして流して下さる。そしてだから今日は安心して。まぁ安心してというても安心は出来まいけれども。
 出来まいけれども心に不安が起こったら生神金光大神様を唱えて、ひとつ親の事を十五の娘さんは願う、又は娘の事をそのお婆ちゃんは願う、もう親と子で願うんだからおかげ頂くよというて今日は帰りました。そして手術の結果が先程聞かせて頂いた。まぁおかげ大変もうそれも大変順調に、手術が済んだおかげ頂いたというお届けでございました。私がその死ぬ筈の者が甦る程しのおかげを頂いたという事よりもね、私はここでいわれる合楽示現活動に参画するとこういうけれども。
 自分の心が神様に向かって生き生きとしとらなければ、示現の御用にも使うては頂けないということを聞いて頂きたいのです。前の日まではキヨ子さんがお届け致しましたように、もう脇から見取るのにじゅつなか、自分もこげんとに寝らにゃんならじゅつなか、もう匂いがするだけじゃなか寝とると虫がよって来る、しかもその人もこの人ももう今にも息が絶えそうな、重体な病人ばかりの病室の中にあって、いわゆるこの世に生ながらの地獄図を見るような中におる事がです。
 もう本当にじゅつないものであったけれども、自分の心がこれがおかげを頂かして頂く為の修行だと、思うた時に心が生き生きとしてきた。もっと臭かってもよいもっとウジ虫が寄って来てもよかと言う様な腹が出けてきた。そこから生き生きとしたその心に、神様が示現の働きを示し現わして下さる。娘さんが嘆き悲しまれる、それを見て助けずにはおかんお取次のお徳によって、助かって貰わにゃおかんという、いうならば生き生きとしたいうなら葉緑素の心が心に生まれた訳であります。
 葉緑素というのは青い葉っぱが、太陽のエネルギ‐を充分に受けるということだそうです。又は充分に自分が受けてそれを同化するということが、その意味らしいです。心の中に生き生きとした信心の喜びがね、生まれてきます時に神様の働きをここに受け入れる事がでける。次にいうならば人が助かる事のための、いうなら示現活動が始まる。神様が不思議な働きを示し現わすということが示現ということ、それに参画させて頂くということがあずからせて頂くということ。
 示現活動させて頂きたいといかに願っても、心が生き生きしておらなければ神様の不思議なね、示現とは神仏が不思議な働きを示し現わす事だと言う事。示し現わす働きになって来ない、心が生き生きと修行の心になった時、始めて神様が示現の働きを示して下さり、もうそこに死相が現れている方の病人の上に、蘇る様なおかげの頂けるお導きをさして下さったと言う事になる。今日午後の奉仕をさせて頂いとります時に、玖珠郡の森町から、この頃始めの間は私は医者でございますと言わずに参って見えましたけれども。
 二度目にはいろいろ御理解を頂いて、実は私は森町で開業しておる開業医でございます。もう本当に毎日大変有名な先生らしいですから、とても患者が多い。その患者の手を握らせて頂いて、自分の心はうつろである、心に心配がいっぱいある訳です。ですから本当に自分でもハッとするようにです、こんな事で病人さん患者さん見てよいだろうかと、良心苦しむ様なそのまぁ毎日でございますというのです。それはその今の言葉で言うと息子さんが医大を出られたけれども。
 もうまぁいろいろな都合があって、まぁそのうまぁなんですか蒸発されとる訳です。ですからもう一人息子が蒸発しとるもんですから自分の心が気が気じゃない、そういう時偶々近所の製材所の堺さんて方が、機械でここの親指をびっちゃいでしもうた。それでそのお医者さんにやらして頂いたところが、こりゃ堺さん切った方が早かとこう言う。そしたら堺さんが言われるのです。先生金光様にお願いしとるけん切らんでよかち言うた。あんたが切らんちいうなら切る訳にはいかんけんで。
 なら明日一日模様ば見て明日来なさいていって明くる、又その堺さんが見えた時にです。もう本当にこれを切る事も手術する事もいらん程しにおかげを頂いとった。あの白い紙を巻いとったつが、あれがご神米のというもののと言うて聞かれた。あれがご神米だと、そして思われたのはです。本当に大変淡泊なあっさりした方ですが、信心ちゃたいしたもんじゃあると、そのお医者さんが思われた。医者が切るといやんにゃ切らんでんおかげ頂くちいうた。
 その信念に撃たれてです、んなら自分もひとつこげん心配ごとがあるから、参りたいと思うがというて話したところが、合楽の事を聞いてお参りして来られたのが始めてであった。そして二度目にはもう赤裸々に自分の難儀悩みを話されました。だからその事ならば私が金光様にお願いして、お取次ぎして頂くから心配はいらん、どうでも八日の朝までには帰って来なければ、もうどうにもでけない問題もある。そんなら八日を堺にお願いをしましょうねというて帰らして頂いて。
 それから何ともいうてこんからと思いよったら、今日お礼に出て来た今度は嫁さんが子供と二人で参って来た。おかげで八日の朝帰って来た。本当にねえ例えばその田中さんと今日柿本さんのお話を見れば心が生き生きとして、神様に向かう修行の心が一杯の時に示現の働きが、神様が不思議な働きを示し現わしなさる働きが生まれてくる。ならこちらの堺さんの場合でもそうです、お医者にいってこりゃ手術切らなければいけんと言われた時に、んにゃこりゃ金光様にお願いしとるけん。
 先生切らんでよかけん薬だけ打っといて下さい、んなら注射一本打って薬だけ塗ってあげましょうというて、白い紙をこうやって巻いとった。その白い紙がお剣先様であったということが後で分かった。信心ちゃたいした事じゃある、こういう時に例えば医者に向かって手術せんでよかと言えれるその心にたまがって、実は堺さん私しゃこげな心配があるが、私ば一辺連れて参ってくれと言う位なところになってきた。だから示現とか活動とか参画するとかいうけれどもね。
 私共の心が生き生きとして神様を信じて疑わない心の状態、又自分が一切を修行で受けさせて頂くという、心の中に葉緑素的な心が生じた時に、天地の親神様の働きを充分にここに受け留める事が出来る。ということが言える訳でありますね。いよいよ夏の祈願祭があと六日目は十六日が御大祭ですから、皆さんもご承知のように、この夏の御大祭というのは、九州も桂先生の御信心の流れを汲んでおる所だけであるお祭りでございます。御本部の御造営を思い立たれた桂先生がね。
 九州中に五穀豊穣諸事大繁昌の大祈願祭を始められたというのが、このお祭りの起こりであります。ですからもう五穀豊穣諸事繁昌、大繁昌を祈願するお祭りでございます。お礼のお祭りとかお詫びのお祭りとか申しますけれども、この八月十六日のお祭りは、私共人間それこそ願わなければならない事が一杯ある。それをとりつかねて祈願をして頂こう、又祈願をさして頂こうというお祭りであります。私はこの示現活動ということが言われるようになつて、急速に合楽のご信者さん方が増えて来ました。
 神様のそういう不思議な働きを示し現わして下さるからです。そのひとつの媒体にならなければならないのが皆さんです。お取次ぎのご用をさして頂かなければならんのが、皆さんです。それには生き生きと自分がおがげを受けておる、自分が助かっておるその喜びをもって、人に伝えていかなければいけません。取分け御大祭と言った様な時には、一番最高のチャンスです。沢山ご案内の用紙あれが案内書がでけておりますから。一人で五枚でも十枚でも頂いて帰って。それこそ祈りに祈り願いに願って。
 十六日の御大祭には一緒にお導きが出来る様なおかげを頂いたら有り難い、それも只配って歩きゃよいというのじゃない、田中さんの例をとりました森の堺さんの例を申しました様に、神様を信じて疑わない又は修行の心が、生き生きとして神様に向かうそういう心を先ず頂いて、示現活動に参画さして頂くという事にならなければならんと思います。十三日会それから大祭前の準備が、いろいろまぁ引き続いてございます。おかげを皆さん頂いて、ただ私がお参りすればよいというのじゃなくてね。
 自分の周囲の難儀な方達をいよいよ示現活動の中にね、入ってもろうて一緒に助かって貰おうという、おかげに繋がって来なければならんと思うのです。信心によって自分が助かり、そして私の一家が助かりというだけのおかげであったら、たいした事はないですね。お前が一人助かったために、お前の周囲に千人も万人もの人が助かっていくということが、神様の願いであってみれば、その願いにこたえる絶好のチャンスだと思うて、この御大祭を頂いたら有り難いですね。
   どうぞ。